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開催報告|建築ワークショップ(カテリーナの森「建築学校」 Vol.0 ゼロ 後編)

更新日:2022年8月18日

何が、何のためにというところに立ち返ること。それから、何が楽しく、心地よいのかを追いかけること。

前編では、諸星和夫さんからお預かりした問いを、ひとつの道筋からご紹介しました。


次いで、無邪気に使う感性や暮らしといった言葉を省みながら、建物を読み解く2日目が開かれました。

ご案内は前日に引き続き、九州大学名誉教授の藤原惠洋さんです。諸星さんの問いに向かい合う取り掛かりのひとつとして、建築の目でカテリーナの母家を見回りました。




玄関より奥へ

玄とは特別な人、関とは入り口を指すそうです。南に2つの玄関。そのうちひとつ、わたしたちがその日出入りしたのは建物のまん中。儀礼用の式台玄関でした。

いわゆる二列三室、六間取り。式台玄関に向かって東に格式の高い座敷を置き、西に事務所にあたる役宅を置く。北に生活空間が並ぶ様を聞くに、目の前で人が流れゆくように思われます。

この土地は、鎌倉時代に近辺の統治を任せられて赴任した志手一族のものでした。かたちを変えながら至った128年前の母家にも影が残ります。鳥の目になってみても、山手から広がる集落にあって、平地のまん中にある大きな建物が象徴的な存在であったことは想像に難くありません。


蚕室

母家の天井は根太天井と言って、2階の床板です。元々は窓がなく、漆喰で塗籠られていたという2階。どうして、わざわざ日当たりの悪い部屋を作ったのでしょうか。

建物が建てられたのは明治26年。殖産興業の時代です。政府は群馬の富岡製糸場へ機械製糸の技術を招き入れました。遠く離れた群馬から、材料となる蚕の繭を生産すべく指導者が渡ってきたことを森の桑の木が証ています。第二次大戦前まで、生糸はこの国の主な輸出品目でした。いささか乱暴ですが、例えるならば2階はトヨタの自動車部品工場だったわけです。


お屋敷

いまも外壁に見える漆喰は、室内の保湿のほか、火を防ぎました。街場の家屋は火事を織り込んで壊しやすく建てられましたが、統治と産業にあたる屋敷にはあてはまりません。瓦にも水の力を願う三つ巴の紋が見つかります。かつては建物西側の台地に蔵がいくつかあったようです。おそらく森へ入る小道の先には米が運び込まれていたことでしょう。万が一にも燃えてしまうわけにはいきません。



小高い土地を意味するのが「もり」だそうです。志手一族が拠したのは、川が9万年かけて削りとった河岸段丘のまん中の「もり」でした。3世紀ごろの古墳があることから、鎌倉時代にはすでに特別な土地であったことでしょう。一族は長い月日をかけ、木々を敬い、手を入れながら森を育てていきます。

森へ入るとダイオウマツが迎えます。養蚕の桑、古い樹齢の杉たち。何を読み解くことができるでしょうか。

この朝、母家の裏に育つシュロの葉が、思い立った人々の手によってハエタタキに変わりました。松本家が森で暮らす仕方に揺れた感性がひとつ、森を読み解いたのかもしれません。


仕事

具に見れば、職人たちの技を追うことができます。明治20年代には金釘が流通しておらず、仮に釘が使われているとすれば村の鍛冶屋の手による鋳物の和釘だそうです。さて、小屋組みの屋根には松を製材した大鋸(おが)や鉞(まさかり)の刃痕。古いものは平たい刃、新しくなると丸い刃といった具合に見ていきます。桁の材料には手斧(ちょうな)の痕。まだ鉋(かんな)のない時代の仕事です。深く感じ入る知識ですが、これは手を動かしたときにはじめてわかることです。


文化

母家の大黒柱は欅(けやき)です。断面積にして他の柱の4倍。120年以上家を支え続けています。大黒天とも、都の大極殿とも言われる由来には文化が香ります。

建物東側、座敷と奥座敷では、さらに細やかに文化を読み解くことができました。貿易による京都との行き来は、一間192cmの京間に現れています。明かり窓の前に文机を備えた付書院では、家の主人がうっすら差し込む月光のもとで嗜みました。白っぽく仕上げた室内のあかりには、ふと目覚めた朝の心地よさを想います。

藤原さんは、カテリーナの母家を有形文化財にしたいとおっしゃいます。建築的特徴のみでなく、過去から今も含めた土地の記憶、暮らした人々の関わり合いまでを知り、語り合うことを求めた問いかけです。


前日、諸星和夫さんは、ものをつくり、それを支えている人たちの感性を育てるような活動をしていかねばならないのではないか?と問いかけました。

どう、応えましょうか。



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