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開催報告|対談「諸星和夫×藤原惠洋」(カテリーナの森「建築学校」 Vol.0 ゼロ 前編)

カテリーナの森には30年の歴史があります。時間に潜り込めば1000年にも至る土地の記憶に出くわすことになるでしょう。いま、森の母屋を改装するにあたり、未来は再び「0 ゼロ」となりました。幾度も訪れたであろう時に、いま一度森の地層に埋め込まれたものたちを見つめる2日間となりました。


本記事では、1日目に行われた対談を振り返ります。すぐそこの未来に何を携えてゆくか、何を後世にうずめたままにしておくか。どことなく思いを馳せながら読み進めていただければ幸いです。


お話しいただいたのは、トヨタ自動車でカローラからプリウスまでカーデザインに多大な貢献をした諸星和夫さんです。諸星さんの来し方を巡りながら、カテリーナの森の行く先への手がかりを探しました。ご案内は、有形、無形の文化財保存に関する第一人者のひとりである九州大学名誉教授の藤原惠洋さんです。





あとは感性の問題だ

千葉大学に、工業意匠を掲げて日本の工業デザインの礎をつくった学び舎があります。多くのデザイナーと、その手から数々の仕事が生まれました。諸星さんはここで、小池新二という人物に出会います。当時教授であった氏からの謎かけを語っていただきました。 曰く、「ぼくは教えることなんかできない。だけど、よい人と、よいものと、よい本は見せられるよ。あとはお前らの感性の問題だ、センスの問題だ。」 カテリーナの未来に、諸星さんは今も携える問いを繋ぎます。ものをつくり、それを支えている人たちの感性を育てるような活動をしていかねばならないのではないか?と。

あんなに笑顔が美しく

少年の時分、Jeepに乗った米兵とアイスクリームに心が沸き立った日があったそうです。けれどもその日を思って忘れられないのは、彼らと付き合っていた日本人の女性たちが、あの当時であんなに笑顔が美しく、楽しげであったことでした。 カローラの開発時、「教育を受けた女性が欲しいと言ってくれる車をつくる」と語った長谷川龍雄氏に共鳴した根を感じます。

さらに、暮らしの手帖の第一号から引用がありました。花森安治による、服を着ている人の暮らしが見えるような着方、服、風土への言及です。

諸星さんが対談の中で何度も使った使用価値という言葉は、作り出したものごとの先にある表情や暮らしに向けられたものに思われます。それはマーケティングやシミュレーションに基づく予言めいた未来ではありません。何が、何のためにというところに立ち返ったら、あとは航路を探る船のように、右へ行っては左へ直し、左へ行っては右へ直して編み上げる未来です。羅針盤はまさに、感性なのでしょう。


物は生活の写し鏡

ICSID(世界インダストリアルデザイン会議)が1973年に京都で開かれました。そこで梅棹忠夫は「物には心がある」と語ったそうです。さらに、その感覚は西洋人にはわかるのかと投げかけました。ジャン・ボードリヤールは「物は世の中の生活や社会の写し鏡だ」と応じます。物の心や神性を問題にしたとき、デザインは宗教やアニミズムの誤解を受けると考えました。諸星さんは、ボードリヤールの言葉に、物自体ではなく、使っている社会を想いました。


ゲニウス・ロキという言葉がカテリーナにはよく似合います。感じるとして、そこには感性が必要だと諸星さんは言います。人間とはどういう存在か。ますます問われる世界にあって、私たちは何をするのか?どんな日常の感性を磨いているのか。 カテリーナの森に私たちが惹かれるのは、森と暮らし、建物とともにある松本家の姿を写し鏡にして、感性が揺れ動くからかもしれません。





再び少年の時分、品川から江ノ島まで、自転車で走ったことがあるそうです。自転車で楽しいんだから、手がつけられないほど車の楽しさはすごい。諸星さんに今も変わらぬ火を見ました。

私たちは、何が楽しく、心地よいのでしょうか。この夜、私たちは純粋な問いかけに面したように思います。


<後編につづく>


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